HIGA TAKEJIRO

比嘉 武二郎プロフィール

タケジロウ・ヒガ
元アメリカ陸軍情報部/通訳兵

 
移民一世の両親の次男としてハワイで誕生。2歳のときに母親と沖縄に戻り、北中城村で育つ。ハワイの父親に次いで、少年期に母と育ての祖父母を亡くし叔父の元で育つが、16歳のときにハワイの姉に手紙を書き、ハワイに呼び戻してもらう。
 ハワイに戻って2年目に、日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発。日系人の強制収容が行なわれていくなか、沖縄での生活が長いためスパイの嫌疑がかけられ、苦悩の末アメリカに忠誠を誓って米軍に志願、訓練ののちに対日戦対策として日系アメリカ人兵士を集めたMIS(アメリカ陸軍情報部)に配属される。
 日本語が堪能な比嘉は語学兵として対日作戦で重用され、とくに故郷沖縄への攻撃にあたっては最前線におかれた。上官に呼ばれ、「次の戦地はここだ」と沖縄の地図を見せられた時は「血の気がひいた」という。また沖縄沖に停泊した戦艦から艦砲攻撃を受ける故郷を見たときは、涙を流しながら自身の運命を嘆いた。
 MISでの主な任務は、資料の翻訳、捕虜の尋問のほか民間人への投稿の呼びかけだった。ウチナーグチ(沖縄方言)が流暢な比嘉は、ガマに隠れる人々に対し、「出てきてください」という言葉を「いじてぃめんそーれ」と故郷の言葉で呼びかける。自分は北中城で育った人間です。米軍は降伏した民間人を殺したりしない。いずれこのガマも攻撃されるでしょう。どうか投降してください。比嘉の必死の説得により、多くの人々の命が救われた。
 生前、この経験を惜しむことなく語り、晩年も90歳をこえた体をおして来沖。激戦地だった糸満の平和祈念資料館で、平和講演を2年にわたって行なった。最後の来沖では普天間基地を訪れ、基地内に残された古いガマの前で若い米兵たちにこう語りかけた。「持っていた銃を一発も打つことなく、英和辞書とマイクだけを使って祖国と母国に少しでも役に立てた。それが私の誇りだ。戦争は決して、してはいけないよ」
 
 沖縄戦では300名ほどの日本語の達者なMIS隊員が配備され、戦後も沖縄に残り、復興に尽力した。ハワイに戻ったMIS隊員らも、故郷沖縄の窮状を訴えて救済を呼びかけ、多くの募金を集めて衣料品や医薬品、食用の豚550頭やヤギ700頭を船で送った。
 任務の性格上、MISの任務は長らく極秘とされていたため、彼らはひっそりと日常に戻って行ったが、2000年、アメリカ政府はようやく公式にMISの功績を認め、同じ日系人部隊でヨーロッパ戦線で活躍した442部隊などとともに、最高の栄誉となる議会名誉勲章を授賞した。